花を飾る 日常をホンノリと彩る…

花のお話 その19「花の御所 応仁の乱で焼け落ちた最後の貴族文化」



トピック イメージ 花 花の御所」とは何とも豪奢なイメージの呼称です。現在の京都府京都市上京区にそれはあったようですが、応仁の乱で焼け落ち、その姿は屏風絵(狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」:国宝)で見る事しかできません。昔、その辺りに行った事がありますけど、どのような景色であったのか思い出すことができませんので、今は普通の京都の町の一角といった景色だったのでしょう。京都御所の向かいあたりで、同志社大学の校舎も近くにありました。「御所」とは主には天皇、それに次ぐ位の高い人の邸宅を指します。「花の御所」は「室町通り」沿いに三代将軍足利義満が造営したもので、室町通り沿いにある事から足利将軍の事を「室町殿」と呼ぶこともあり、それが室町幕府の名の由来です。足利尊氏が権力を握った時は足利幕府と呼ばれていたのでしょう。

この「花の御所」が造営された三代将軍足利義満の時代は足利幕府の最盛期であり、南北朝の合一を果たして、有力守護大名を掌握し、幕府としての権力を確立させた時代で、この御所は幕府としての政庁でもありました。義満は鹿苑寺(金閣寺)に代表される絢爛な「北山文化」を花開かせ、「花の御所」の邸内には鴨川から水を引かせ、各地から集めた四季折々の花木で邸内を飾ったとされています。義満はここに天皇や関白を呼んで、詩歌や蹴鞠の会などを催したそうです。まさに、わが世の春を「花の御所」で謳歌したのでしょう。

しかし、足利将軍家の問題(世継ぎ問題)を機に内紛が起こり、1467年、応仁の乱が起こり、その中で「花の御所」は消失してしまいます。その「御所」の景観は想像するしかありませんが、八代将軍足利義政の時代には文化の様相が一変します。貴族的で華麗な「北山文化」から、幽玄・わび・さびにも通じる「東山文化」です。その変遷の背景には足利幕府の経済的な衰微があるとも言われていますが、慈照寺(銀閣寺)が鹿苑寺(金閣寺)に劣るとは誰も思わないでしょう。要は、貴族的な文化が終焉を迎え、時代の主役に武家が本格的に台頭してきたのだと考えます。貴族(公家)そのものの必要性が歴史の中で淘汰され始めたのです。貴族の「寝殿造」から、その書院を主室とする武家の住宅様式「書院造」が生まれ、儀礼から合理・実用の時代へと変遷していきます。

時代はキナ臭い戦乱の時代を迎え、貴族ともども、京都を灰燼に帰してしまいます。「花の御所」とは、最後の貴族文化の空間だったのでしょう。武士を中心として広まった「東山」風の文化は、京都の戦乱で各地の守護大名を頼って逃れた文化人や知識人により、今日まで続く「日本的な文化(畳、障子、襖、床の間など)」を広く庶民にまで浸透させる結果となります。まさに今の「和室」が出来上がったという事です。また、茶道、華道、能などの多様な文化が花開いた時代でもあり、ここで大凡の「日本的な美意識」の原型が形作られたのだと考えます。長引く戦乱と「貴族文化の凋落」が多くの人にもたらしたものは「無常観」でしょう。しかしこれは決して、文化的な後退ではなく、本当に皮肉な事に、悲惨な戦乱の中で、それまでとは全く異なった文化・美意識・世界観を昇華させたのだと思います。平安の時代から続いた「日本の貴族文化」は「花の御所」とともに焼け落ち、その代わりに、豪華絢爛な美ではなく、誰もが生活の中に取り込める「自分と対峙できる美」が芽吹いたのでしょう。それを、私たちは今に引き継いでいます。


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