花を飾る 日常をホンノリと彩る…

花のお話 その24「大和心 あるがままに感じる もののあわれ」



トピック イメージ 花 本サイトの「花の詩3」「花の詩4」でご紹介した詩の中に、本居宣長の作があります。

「敷島の やまと心を人とはば 朝日ににほふ山ざくら花」
「紫の 花なつかしみ 武蔵野の くさはみながら すみれともがな」

「敷島の」は大和(やまと)にかかる枕詞ですが、ここでは「やまと心」にかけています。これは本居宣長の唱える「大和ごころ」を表す歌として有名ですが、意訳すれば「(私の思う)大和ごころを人から聞かれれば、それは朝日に映えて咲く山桜の花と答える」となるでしょう。つまり、本居宣長は、「大和ごころ」とは日本人独特の情緒であり、それは源氏物語などにみられる「もののあわれ(趣)」を感じ取る感受性であるとしています。宣長の詩から直接読み取れば、「私はそう感じる」のでしょうから、「大和ごころ=サクラ」という事を言っているのではないでしょうけど、多くの日本人がサクラを好むのは事実です。

二番目の詩は、万葉集の研究者であった本居宣長が、その万葉集にある。「紫の一もとゆえに武蔵野の 草はみながらあはれとぞ見る(よみ人しらず)」という有名な歌を下地に詠ったものです。もとの万葉集の歌にある「紫」は「むらさきぐさ」で、花の色は白ですが、その根が「紫色」の染料に使われます。今では「昔の武蔵野の姿」も「そこに生える紫草」もありませんが、詩の意は「紫草の咲いているのを見ると、武蔵野に生えている草々が全て愛おしくなる」です。本居宣長の詩は「(万葉の世の)紫草はないが、菫の紫を見ると同じように武蔵野の草々が愛おしくなる」です。

本居宣長は「人間らしい感情」を押し殺す儒教道徳や仏教道徳を排し、日本の古典世界にあった「ありのままに感じる心」への回帰を唱えています。それは「西洋のルネサンス」と同じで、よく似ているのですが、もしご興味のある方は兄弟サイトに書いてありますのでご参考までに→https://book.ureagnak.com/jinmon_12.html

この「大和ごころ」は「大和魂」という言葉に姿を変え、本居宣長の唱えたものとは、どうにも違う姿へと変わってしまいますが、その原点を知ろうとすれば冒頭の二つの詩が、ストレートに示してくれます。万葉集でよく詠われる花は、「萩(ハギ)」「梅(ウメ)」「橘(タチバナ)」ですが、平安期には「桜(サクラ)」が登場し始めます。いにしえの人たちも「野に咲く花」を愛で、それを詩に詠い、現代人も様々な花を楽しみます。本居宣長の「大和ごころ」とは、そうした「自然の造形」「四季の移り変わり」の中で育まれた「あるがままに受け入れる心」を「日本人特有の情緒」として解き放とうとした言葉です。それは「発見」ではなく「元から持っていたものへの気づき」を促そうとした考えでしょう。花を眺める人の心には、自然への敬虔な情が湧いてくると思います。それに関しては日本も外国も無いと思いますが。

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